その男、マッチョにつき

私が気づいた時にはもう、お客様は空気イスを始めているところでした。

 

「一人です」私がお聞きする前にそうお客様の方からおっしゃいました。どうぞお好きなお席におかけください。私が言うと、お客様は大きなビジネスバッグとともにテーブル席に腰を掛けられフーっと長い息を吐きました。紺のストライプのスーツはそのがっちりとした体格から肩パットが入っているかと思わせるほど筋肉の形が外目からも認識できるようにはっきりと映っていました。

お水をお持ちして、

「ご注文がおきまりになりましたらお呼びください……」

言った私は妙な感覚に襲われました。

何かおかしい。このお客様。座高が高いのは分かる、背の高いお客様だから。しかしここまでの高さ。そう思うと、メニューを見ているお客様の体がこきざみに震えているのが分かりました。顔があからみ、鼻息が聞こえてくる。

空気イスだ!

この人は空気イスをしながら注文を考えようとしているのだ!

一秒たりとも自己の鍛錬のために時間を無駄にしないこの姿勢。

アスリート。

この瞬間から私の中でこの人を見る目が変わりました。

 

「かけそば大盛りと、シナモン通りの誓い(シナモンロール)、お願いします。」

かしこまりました。私はお客様の目をしっかりと見据えて返事をしました。いえ、目ではなく、その奥にあるお客様からあふれ出ようとしているその魂に向かって。

厨房に戻ると、「急いで!」そうスッタフ達に声をかけたのは、お客様の空気イスの時間を出来る限り短くしてあげたいという思いからでした。そしてその期待に応えてくれたスタッフの料理はいつもの半分ほどの時間で出来上がりました(やればできるのだ!)。

料理を運んでいこうとしたとき厨房のスタッフから、

「何があったんだ?」と聞かれました。私はそのスタッフの目をしっかりと見据え、くびを横に振り無言で言づてをしました。

「いちいち聞こうとするんじゃねえ! これはおれとあのお客様との一対一の攻防戦なんだ!」と。

料理をテーブルにお出しすると、お客様はうなずかれ、片手に持っていたダンベルをバッグにもどし、もう片方の手に持っていた本をテーブルの上におきました。

「ドサッ」

まさか、ということは。やはり。その本のカバーには鉄製の重い材質が使われていたのです。ここでも筋トレ。やはり、ただものではない。まさに私が目標とする人。さっそくこの方を空気イスから解放し、料理を召し上がっていただこう。

私が下がるとお客さまは空気イスをやめ、お出しした料理を最後まできれいに召し上がられました。

あれほどの強い意志をもったお客様にはめったにお目にかかることはできない。そうだ、

「お客様。コーヒー豆の余剰分があり、本日に限り、コーヒーを一杯、無料でお出しできますが、いかがいたしましょう?」

「ぜひ」

お客様はうなずかれ、私はカウンターのコーヒーメーカーでコーヒーの準備を始めました。実は、サービスというのは嘘で、本当は私が個人的にリスペクトしたお客様へのプレゼントでした。もちろん、これは私の給料から天引きという形になります。

 

? あれ、なにをしているんだ? なんだっけ、あれ、胸筋をきたえるやつ。

お客様がテーブル席で一人、胸筋を鍛えるスプリング式の器具を両手で左右に伸ばして縮ませてを始めました。しかもこれがものすごい勢い。 あっ、思い出した!

エキスパンダーだ!

そのとき、

「うわっ!」という声が店内に響きわたると、お客様の手からエキスパンダーが離れ、あろうことか、私のいるカウンターまで飛んできました。

ガシャガシャガシャ!

出来上がったコーヒーに直撃していました。カップはフロアにたたきつけられ、台無しに。

ゆっくりと、エキスパンダーを飛ばしたそのお客様が近づいてきて言いました。

「ごめんなさい。こんなふうになるとは、夢にも思っていませんでした」

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