天才は眠っている

以前、井上先輩が同人誌の展示会に行きました。定期的に行っていることは周知の事実です。テレビ等でどういうところかは知っていましたが、このたび百聞は一見にしかずと思い、私も足を運ぶことにしました。

 

私が出向いた会場はビルのフロアを借りた小さな展示会でした。平日開催ということもあり、業者などのスポンサーは来ておらず、来場者たちは比較的静かに並べられた作品を手に取って見ていました。

この同人誌会というのは、だいたいが既存のアニメや漫画をもとに二次創作した作品が多く、それを作者たちが自分なりに変化をつけて漫画やフィギアを作って販売するという形式です。

その中のある販売者に私の視線は向かいました。

その人は、以前、私が銀行の窓口で見た女性でした。販売者として自作本を並べ、姿勢を正し、静かに購入者が来るのを待っています。

特段容姿が華やかだとかそうでないとかではなく、いたって普通の主婦にしか見えません。しかし、窓口での対応のうまさから、頭のいい人であろうと察していました。なぜ幹部としてではなく、前線の業務に従事しているのかと疑問に思ったため記憶に残っていたのです。

 

女性は自作品の販売中ではありましたが、後ろには何冊もの本を重ねてものすごい速さでページをめくって読んでいます。もちろん自身の作品ではなく、本屋で市販されている文庫本です。フィギアでも買おうかと趣味にないことを考えていた私でしたが、その女性の販売ブースを見てみることにしました。私に気づくと、

「いらっしゃいませ」

窓口で会った時と同じ笑顔を見せた女性と視線が合います。

「どうぞ、手にとってご一読ください。あちらのテーブルに試し読みをする場所がありますので」と女性。それじゃあ、と迷いながら『昨日の私は別の人』と書かれた挿絵のついた作品を手に取りました。

「いくらですか」と私が聞くと、ご購入でよろしいですかと驚いた様子。自費出版なのでちょっと値段がはりますごめんなさいと言いながら2200円だと言われてちょうどを払いました。

他の作品のことなどを少し聞いたりしたあと、次回も販売する予定でおりますので、よろしければまたお願いしますと言われ私はそのまま他の販売物に目も向けずに会場を後にしました。

 

『昨日の私は別の人』。これは私の処女作なんですと女性は言いました。なぜこの作品にしたかと言えば、前篇と後編に分かれた大作だったため、せっかくわざわざ足を運んだのだし思い切って買ってみようと思ったからです。

(ちなみに、女性は私のことなど覚えていない様子でした。数ある窓口来訪者のうちの一人なのだから当然のことなのですが。)

昨日まで読んでいて、さきほど休憩室で読み終えたばかりの『昨日の私は別の人』。驚いたのは、この作品、漫画ではなく、《小説》だったこと。

知ったとき、素人の書いた処女小説を前編と後編二冊も読むのかと肩を落としたのですが、それも杞憂に終わります。

天才の書いた小説だとすぐに分かったからです。

いつか読もうくらいで考えていました。が、念のため最初の数ページくらい読んでおこうとページをめくると手が止まらなくなってしまいました。そして、なぜ彼女の作品が新人賞をそうなめにせず、自費出版のブースでささやかに手売りをしているのかも読み終えて分かった気がします。

 

小説のラスト、しがない銀行員としてOL生活を送っていた中年女性が、最後にまったく脈絡もない結末にたどり着きます。

「タツコはそのままビーチに出て、灼熱の太陽の下、ハイレグ水着の上半分をおろした。そして、選手権用に鍛えたその鋼鉄の肉体を白日の下にさらした。」

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