六越

元女子アナウンサー

「よくうちの住所が分かったね」

厨房スタッフの井上さんが、送られてきたキノコの箱の会社名を見てそう言いました。箱と一緒に入っていた手書きの手紙の中にこんな記述がありました。

「貴店に魅了されました。弊社の食材をお使いいだだけましたらこれほどうれしいことはありません。ぜひお使いいただけたらと思います。」

手紙の後ろの方にはご自身が良いと思ったお店にしか材料は下ろしていないとも記されてあります。

「この会社知ってる。昔テレビでアナウンサーやってた女の人が経営しているところだ」

 

よく聞いてみると、私も知っている人でした。ああ、あの人いまは田舎でものづくりをしているのだと知りました。私は普段、厨房にいるため分かりませんでしたが、当店にいつかいらしていたようです。

「あの人もよくこの店が分かったね」

一方、テーブル席に店長と一緒に話をしている、昔、ケーブルテレビでアナウンサーをやっていたという女性。隣には町内会長さんが同席しています。

町を活性化させるNPO法人をやっていて、当店にも働きかけにきたのです。いろいろな働き方があるのだと、この年になってもほとんど社会を知らずに生きてきた私にはとても新鮮に映りました。

 

後で休憩室に行くと、机の上には店長が話をしていたNPO法人の女性が持ってきた冊子がおいてありました。そこにはこう記された名刺が添えてありました。

『NPO法人 ○○町総活性プロジェクト推進委員会 准全権チーフ ○○さえ子』

めざしを買う人

私がいつも行くコンビニで、朝、必ず魚のめざしのパックを買っていく若い男性がいます。

珍しいと思いました。しかもあまりコンビニで売っているところを見ない気がします。でも、そこには売っているのです。ワンパックだけ、めざしが。

その若い男性が予約でもしているのでしょうか、いつも買うからそこにめざしを置いといてくださいと。

 

今朝のことです。その若い男性がいつも買っているめざしのパック。それを、カップ酒を買ったおじさんが手に取りました。まだあの若い男性は来ていませんでした(だからこそめざしのパックが残っていたわけですが)。

あの若い男性はどうするのでしょう。いつも購入しているめざしがなくて。それが私は気になります。マラソンランナーが給水所で自分専用のドリンクを取ろうと思ったら、別の選手に取られて飲まれてしまった。自分がいつも大切に当たり前に思っているものがない。もちろん、めざしがあの若い男性専用と決まっているわけでもないのですが。

 

あると思っていたモノがないときの人の心の弱さ。あるものが当然の世界で暮らしてきた私ですが、いざというときには、だめな気がします。

ちょっとした好奇心

「何やってるんだ君たちは」

大きな声が閉店後の店内に響きました。

私たち厨房スタッフが新商品を開発するために居残りをしていたのですが、出来上がった料理を見て店長が大声を上げたのです。

 

出来上がった料理というのが井上さん主導で作成したデザートなのですが、最後に井上さんがジョークを交えて、実際の完成形とは少し違う変化を加えたものにしたことにより、見た目が薬物をおもわせる出来になってしまったのです。

後ろにいた店長が、それを見て激怒したというわけです。

めったなことでは声を荒げたりしない店長なのですが、その時ばかりは鬼気迫るものを感じました。でも私たちが驚いたのは、実は、そこではありません。この後に店長が言った言葉です。

「大きな声を上げてごめん。でもね、これは私は見逃すことが出来ない。昔、私の友人の何人かが、ドラッグに溺れて逝ってしまったから。他のことは別にしても、これに関しては厳しい姿勢でいないとダメだというのが私の経験則なんです。分かってください」

 

始まりは、仲間たちのちょっとした好奇心だったそうです。扉はいつでも開いているけれども、意識的にそれを自ら閉める作業が必用なのだと店長は言っていました。